(おなづかじんじゃ)
女塚神社
女塚神社の年間行事
1月1日〈元旦〉 | 元旦祭 |
2月22日 | 祈年祭 |
6月29日 | 夏越大祓 |
7月 |
例大祭 |
11月 |
七五三詣 |
11月25日 | 新嘗祭 |
12月23日 | 年越大祓 |
・鎮座地
東京都大田区西蒲田6-22-1
・御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと)
・由緒
当社は以前八幡社と呼ばれ、女塚村429番地(蒲田駅東口付近)に鎮座していましたが、明治5年、京浜間に鉄道が敷設されるため、明治21年現在地に遷座され、女塚神社と改称されました。
現在の社地には、新田義興公憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害せられたのを村民が憐み、この地に祀ると伝えられ、八幡社を遷座する以前より村民の崇敬の厚い聖地でありました。現在も境内の一隅に女塚霊神の塚が残っています。
〈女塚伝説〉
南北朝時代、新田義興公(新田神社御祭神)は父義貞公の志を継いで勤皇の軍を興し、一度は敗れて越後へと逃れますが、その後武蔵国へ来て兵を募り鎌倉の足利方を討つため軍を興しました。一方の足利方では義興公の暗殺計画を企て、もと義興公の臣下であった竹沢左京亮を義興公の元に送りました。罪を詫びて許された竹沢左京亮は義興公の歓心を得るため京都より16・7の上臈を迎えて義興公に奉ったのでした。この女性が少将局と呼ばれた女性です。このようにして竹沢は義興公にとり入って重く用いられるようになり、時期到来としていよいよ暗殺を実行に移すのでした。
一族郎党を集めて自宅附近に隠して名月の宴を張って義興公を迎え奉り、隙を窺って殺害しようとします。これを知った少将局は義興公に文を届けて、夢見が悪いから七日間は外出しないようにと招待に応じないよう伝えたのでした。このため竹沢は少将局を殺害し亡骸をそのまま捨て置きましたが、里人がこれを憐れんで祀ったのが女塚であるといいます。
義興公は武運つたなく竹沢の奸計にかかり正平13年(西暦1358年)矢口の渡しに於いて討たれ憤死して多摩川の水泡に帰しました。このことがあってから矢口の渡しに"光り物"が現れ往来の人を悩ませたので、村老等が墳墓を築き社祠を興し、新田大明神として奉斎しました。
現在大田区矢口一丁目に鎮座している新田神社がこれに当たります。矢口の渡しは新田神社とは少し離れていますが、創建当時は多摩川が神社の前あたりを流れていたと言われており、多摩川は度々氾濫を起こして川筋を変えているので、新田神社の傍に矢口の渡しがあったとしても不思議ではありません。
尚、当時の東海道は今の第一京浜国道ではなく矢口の渡しがあったところだと言われています。つまり当時の大通りでした。義興公に命をかけて忠節を尽くした少将の局は、今では新田神社からさして遠からぬ地に祀られています。
女塚神社の御朱印は、蒲田八幡神社にて授与致しております。詳しくはこちら(御朱印について)をご覧下さい。
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